knjrの日記

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改訂 原子力安全の論理

改訂 原子力安全の論理

改訂 原子力安全の論理

本書の冒頭から引用すると

わが国にとって国家の構成員たる国民の一人一人が、原子力を受け入れるという意思決定をしなければならない。<中略>現在、人々が求めているのは、決定のプロセスそのものに参画したいといことであろう。とすれば、各界、隠そうの多数の人々の議論のための共通の土俵というものは、絶対に必要なはずである。私がこの本で述べたいのは、この共通の土俵を作るために何が必要かということを、物事の根本に立ち返って考えてみようということなのである。
趣旨は素晴らしいと思う。
書かれている内容についても、自分のような工学の専門家でなくても、割と理解できるように書かれている。米国の規格を随時取り入れるなどの、原発の安全に対する考え方はよくわかる。


ただし本書のタイトル通り「原子力安全の論理」であり、実際に誰がどのようにチェックするなど、どのような体制で安全管理が行われているかについては書かれていない。
また浜岡原発で問題になっているような設置時の評価などについてもよく分からないし、今回の福島の震災で直接の原因となった津波に対するアクシデント・マネージメントについては電力会社の取り組みを過大評価し、責任を押し付けている点(※)も気になった。


これらを見るとなんとなく「仏つくって魂入れず」のような状態だったのではないかと推測してしまう。


著者の佐藤氏は先日紹介した「<福島原発事故についての緊急建言>をした16名」のうちの一人のようである。せっかく本書があるのだから、早急に何が問題だったのかフォローアップしていただきたい。


更に読み終わった後に、何かしっくりこないと思っていろいろ考えてみた。
危険を煽ることは割と簡単だが、安全であることを証明する事は非常に難しい。何故か考えてみた。


そのヒントは2月に紹介した「経済学的思考のすすめ」の中の演繹法にある。
安全であることを証明するためには、「安全対策をしているから安全である」というのではなく、「危険でないから安全である」と証明する必要があるのである。その観点が本書というか、原子力発電の安全を主張する方々から欠如しているように思える。



※:本書から一部引用


「国の規制は、国民を保護するという見地から、リスクを受け入れられるレベル以下に低くすることを目標にしている。だから、リスクがこのレベルより十分低ければ、規制は目的を果たしてことになる。その上でさらに可能な限りリスクの低減に努めるということは、当然そうるあるべきだが、これを規制によって強制するのは、規制の本来の役割を越えるおそれがある。
この点を踏まえて、この報告書(1992年の原子炉安全基準専門部会の共通問題懇談会が提出した、アクシデント・マネージメントについての報告者)は、アクシデント・マネージメント策の整備は規制の一部として強制されるものではなく、あくまでも設置者の包括的責任の一部として自主的な活動である、と位置付けているところである。日本の設置者あるいは事業者の意識は、従前、概してかなり高いと言って良く、様々な自主的保安活動を行ってきていたが、この報告書において、設置者あるいは事象者責任の原則をあらためて明確に位置付けた意義は大きいといわなければならない」