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検察が危ない

コンプライアンスの専門家である郷原氏による検察に対する問題提起。
元検察官で内部事象に精通している、さらに小沢一郎氏の政治手法に共感していない立場であることから、本書での指摘の意味は大きい。

検察が危ない (ベスト新書)

検察が危ない (ベスト新書)

  • 石川氏の逮捕・拘留事件は、政治収支報告書の「記載ズレ」であり、通常であれば報告書の訂正だけで済まされる問題。検察の主張するような政治資金の透明性が害されたとうようなものではない。石川氏を逮捕した時期についても、国会会期中であれば、逮捕許諾申請が必要となる(=逮捕の容疑となった事実が具体的に特定され明確な理由がが必要となる)が、検察がこれを申請できるような犯罪と特定できなかったため、国会会期前に突然逮捕うしたと思われる。
  • そもそも政治資金収支法で政治資金の収支の公開が求められている理由は、政治家や正当の政治資金が、誰(個人、企業、団体)からどの用途に使われていることを国民に正確に情報開示し、その情報に基づいて公民が政治選択を行うこと。そのような趣旨・目的に照らすと、法は全ての現金の入出金、政治資金団体の口座の入出金について、収支報告書への記載を求めている訳ではない。例えば総務省のQ&Aでも述べられているように、政治団体の職員が立替払いを行い後日清算をした場合、政治団体の経費が不足した場合には、代表者である政治家が立替払いをする場合などは、個々の収支について報告書に記載する必要はない。
  • 資金繰りのものを含めて、あらゆる入出金を全て収支報告書に記載しなければならず、それに違反したら罰則の適用対象だということになると、検察はあやゆる政治家を政治資金規正法違反で摘発する事が可能となり、検察権力の政治への介入を無制限に許容する事になりかねない
  • そもそも検察がおかしなってきたのは、戦後のロッキード事件リクルート事件などの収賄中心の特捜検察による政界捜査が大きな限界に直面した1992年の東京佐川急便事件から。この事件で収賄による摘発を目指した特捜検察は、政治資金規正法による2つの事件の摘発にとどまり、国民の期待(金丸氏は5億円受領に対して20万円の罰金、事情聴取なし)を裏切ることになった。この事件で検察庁の看板にペンキが投げつけられた瞬間から、検察は世論の期待に反することの恐ろしさを知り、これを期に世論を非常に意識、捜査を進めていくという検察の姿勢が顕著になっていく。

  • 特捜検察がメインにしている贈収賄事件も、談合撲滅の業界の表面上の動きはあるが、実際には構造は変わらず受注者を決めるための業者間の調整は一層巧妙になり、捜査をいっそ困難にしている
  • 特捜検察内部の問題として、特捜検察の捜査で自分で考えて判断するのは、部長、副部長、主任検事まで。その下の検事は、上から指示されるまま取調べを行うだけで、自分自身の頭を使う余地は極めて限られる。さらに土日祝日などの全て出勤するなど拘束時間が長い環境では、上から考えたストーリー通りに取り調べをし、最後には「どうでもいいから決着をつけてくれ。逮捕してしまえば20日で済む」という思考停止の心理状態になってしまう。
  • また特捜検察では筋書きの転換が中々出来ない。操作の初期の十分な証拠がまだ集まっていない段階で設定したストーリーで、上司、上級丁の了承を得て事件に着手してしまうと、それとは違う方向に変更することはできるだけ避けたいという心理が働く。このようなストーリーの単純化・固定化のために真実と異なった筋書きに固執することになる。
  • 特捜部とメディアに関係についても、特捜部と司法クラブの記者の利害は完全に合致している。司法記者の多くは、特捜部の動きを追いかけ、捜査の展開を予測する事だけに心を奪われ、事件の社会的背景の分析、摘発された側の事情などを独自に掘り下げて取材することは殆どない。そのため特捜部が強制捜査に着手したとなると、殆ど「従軍記者」の記事のような提灯記事が社会面を飾る事になる。
  • 本来は特捜検察に関係する事件に、問題を十分に認識しえる立場にあるはずの特捜検察のOBの弁護士の多くが、新聞、テレビなどで問題を指摘しないのか、検察の現状を容認し、検察を擁護するようなコメントばかりおこなう背景には、司法クラブと同様に、特捜検察OBの弁護士が基本的に検察と利害を共通にしているから。特捜検察OBにとって、「検察の正義」への国民の絶対的な信頼が維持されていることが、特捜捜査で名を遂げた特捜検察OBとしての社会的評価、地位を高める事になるという意味で、両者の利害が共通するので、自らを否定するような発言をしないのは、ある意味当然である。