knjrの日記

登山、鉄道、写真、カメラ、旅行、読書記録などの思いつくままに

ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体

  • 本の学校制度は画一的な人物を育成することに効率的なしくみになっている。それに対し教育の多様性をもたたすために塾は自然発生してきた。しかし多様であるはずの塾が、ことに学力トップ層については、多様性を欠く状態になってきた
  • 受験勉強はもともと、個々の受験生が自ら作戦をたてて、自らを奮い起こして取り組むべきものであった。しかし塾のカリキュラムによって、作戦立案や塾が肩代わりするようになった。その結果、受験生に求められるのは、大量の課題をこなす処理能力と忍耐力だけが残り、与えらたものに対して疑いを抱かない力も求められることになった
  • 受験システムそのものが、塾に完全に分析され攻略されている。その理由は日本の学校制度、進学システム、学習カリキュラムが画一的すぎるからではないか
  • 教育によって子供たちの能力が開発されれば、教育を受けた本人だけでなく、彼らを含む社会全体が利益を得るという意味で、本来教育とは公共財である。教育を受けたものは、そこで得た者を自己実現のためだけに利用するのではなく、社会に還元することが強く求められる。だから先進国では教育費の自己負担は最小限にされているしかし日本では教育が立身出世の手段として広まった経緯があり、そのため教育を受けることによる利益は本人のみが享受して当然とする社会通念ができた。教育が「勉強という役務と引き換えに社会的優位を得る商取引」のようになった。取引条件に少しでも偏りがあれば「ずるい」と感じるようになった。日本の平等至上主義の教育システムは、この「ずるい」という感覚をベースに成り立ってしまっている。
  • 塾歴社会で育つと、目の前に課題が与えられると、反射的に答えを出したくなってしまう。世の中にはそのときどきで「正解」が変わってしまう「動的な問い」のほうが圧倒的に多い。「動的な問い」に対しては、安易に結論を出すのではなく、向かい続けることが肝要、しんどいが、問いを問いとして抱え続ける力が必要である。