knjrの日記

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原子力発電導入の背景

原爆を落とされた日本が何故原子力発電を受け入れたのか。我々の世代の素朴な疑問を解決してくれる動画を見つけた。


原発導入のシナリオ 〜冷戦下の対日原子力戦略〜』
「毒をもって毒を制する」 第5福竜丸事件で反核・反米の世論が高揚する中、日米が協力し民間から行った世論形成の全貌を明らかにする。(現代史スクープドキュメント 1994年放送)

<あらすじ>
時は1950年代後半、アイゼンハワー大統領の時代、米国とソ連が激しい原子力開発競争を繰り広げていた。


そんな中で、ビキニ水爆実験による第五福竜丸事件で日本国民が反原発で盛り上がることになる。米国はこの原爆反対の動きをつぶすため、「毒をもって毒を制す」の考えに倣い、原子力の平和利用を大々的にうたいあげる作戦に出た。具体的には、日本人が新聞を通じて意見を組み立てることを事前調査で知り、「日本に対する心理戦略計画」として、柴田秀利や正力松太郎を通じて読売新聞にとりいった。


正力松太郎は米国の提示した原子力推進に興味を示した。その理由は、当時日本は非常に貧しく(特にエネルギー資源がないことを気にかけ)、貧乏の結果による共産主義化を恐れていたから。原子力発電により国民を豊かにし、その結果として共産主義に国民がなびくことを防止しようと思っていたから。


読売新聞と日本テレビは、米国からの原子力平和使節団の来日の受入れ表明を皮切りに、原子力の平和利用キャンペーンを大々的に繰り広げる事になる。


米国の濃縮ウランの日本への提供が朝日新聞のスクープにより表に出て、世論は真っ二つに分かれる。当時の科学者達にも、米国の原子力開発が軍事利用と平和利用の境界など無い事に気付いていたため反対する学者も多かった。


正力松太郎は突如、衆議院議員に立候補。原子力の平和利用を主張し当選。当選後には財界に働きかけ、原子力平和利用懇談会を発足させ、政財界や賛成派の科学者をまとめ原子力平和使節団の受け入れた。


(電力事情の背景としては、当時は慢性的な電力不足のために大型の水力発電を次々に建設していたが巨額な建設経費が高騰し、水力発電の発電量が限界に近づいていた。火力発電所もまだコストが高く、将来の石炭不足も予測されていた。新たなエネルギー源を模索していたのである)


正力松太郎は、米国から提供されたデータを使用して「原子力は水力や火力よりが経済的だと」財界を説得した。安全性についての主張では、原子炉から出る死の灰は食物の殺菌や動力機関の燃料に活用できるとまで説明していた。


原子力平和使節団は来日し、日本テレビや読売新聞による大キャンペーンの結果、世論は原子力の利用の方向へ傾き、ついに昭和32年、東海村の原子炉が稼働を始める事になった。ただし原子力発電が開始されたのは、その10年後の昭和42年であった。