knjrの日記

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世界史を変えたスパイたち

池上彰さんの著書はかなり読んでいるほうであるが、その中で最近一番面白かったのがこの本。タイトルのとおり、アメリカ、ロシア(ソ連)、イスラエル・・・など各国の諜報機関の動きを歴史的に、池上さんが参考にした100弱の参考文献をもとに、池上さん流にポイントをまとめてくれている書。第二次大戦前後のスパイの例から、最近のサイバー空間での攻防まで。

自分が特に気になったのは米国CIAの世界各国への介入。正直、自分が学生時代には全く分からなかったが、裏ではこんなことが行われていたとは・・・

本書で明らかにされているCIAの介入事例はイラン、グァテマラ、コンゴ、ブラジル、キューバインドネシア、チリ、ベトナムイラクなどなど。

↓はChatGPTにそれらの介入事例を聞いてみた結果です(本書からの要約ではないので注意)。

  • 1953年 イラン モサデク クーデター
    • イランの1953年のモサデククーデターは、アメリカ中央情報局(CIA)とイギリスの秘密情報部(MI6)によって計画・実行されたイランの首相モハンマド・モサデクに対する政変です。このクーデターは、イランでの石油産業の国有化を進めていたモサデク政権を転覆させ、イランの君主制を回復させることを目的としていました。

      背景として、1951年にモサデクはイランでの石油産業の国有化を宣言し、イギリスの石油会社であるイギリス・アングロ・イラン石油会社(AIOC)を国営化しました。これにより、イランは石油利益の独自管理を目指しましたが、イギリスはこれに反発し、石油供給を停止するなどの経済制裁を課しました。

      イギリスの経済制裁はイランの経済に大きな打撃を与え、またイランの石油産業は技術や経営面での困難に直面しました。このような状況を受けて、イギリスとアメリカはモサデク政権を転覆させる計画を立てました。

      CIAとMI6は、モサデク政権に対抗するため、イランの保守派やモスクなどの宗教指導者と連携し、反モサデク勢力を組織しました。彼らは軍部や秘密警察などの支援を受けて、クーデターを実行しました。

      1953年8月19日、クーデターは発動され、モサデクは逮捕されました。同時に、イランの君主であるモハンマド・レザ・パフラヴィーが復権し、絶対君主制を確立しました。パフラヴィー王はイランにおいてアメリカとの関係を重視し、西側諸国との経済的な結びつきを強めました。

      このクーデターにより、イランの民主主義政権は打倒され、以後の数十年間、イランは君主制の下で統治されることとなりました。また、このクーデターはイラン国内での反米感情を高め、イラン革命の遠因となりました。1979年にはイラン革命が勃発し、パフラヴィー王朝は倒され、イラン・イスラム共和国が樹立されました。

  • 1954年 グアテマラ PBセクサス計画
    • アメリカのPBセクサス計画は、1954年にアメリカ中央情報局(CIA)によって実行された、グアテマラの政権転覆計画です。この計画はグアテマラの民主的に選出された大統領であるヤシン・アルベンス・グスマンを打倒し、アメリカにとってより好意的な政権を樹立することを目的としていました。

      背景として、アルベンス政権はグアテマラの土地改革を進め、アメリカのフルーツ会社であるユナイテッド・フルーツ・カンパニーの土地を接収しました。これに対し、アメリカの政府と企業は利益の損失を恐れ、アルベンス政権に対する敵意を持つようになりました。

      CIAは、反政府勢力や軍部などと協力し、グアテマラにおけるアルベンス政権に対する軍事クーデターを支援しました。1954年6月18日、クーデターが発動され、アルベンス政権は崩壊しました。その後、アメリカによってグアテマラ政府に有利な政権が樹立されました。

      この計画によって、アメリカはグアテマラでの反米的な政権を転覆させ、自国の利益を保護しようとしました。しかし、この介入はグアテマラ国内での政治的混乱を招き、長期にわたる内戦や人権侵害の原因の一つとなりました。この出来事は、アメリカのラテンアメリカにおける介入主義政策の一例として言及されることがあります。

  • 1960年代 コンゴ  ルムンバ大統領殺害
    • コンゴにおけるCIAの介入事例として、1960年代のパトリス・ルムンバ大統領への関与が挙げられます。当時のコンゴはベルギーからの独立を果たし、ルムンバ大統領が就任しました。しかし、その後の政情不安や内戦により、CIAはルムンバ政権に対して干渉を行いました。

      CIAはコンゴの対立勢力や反政府グループと連携し、ルムンバ政権の転覆を試みました。彼らは軍事訓練や武器供与を行い、反政府勢力を支援しました。また、CIAはルムンバ大統領を政治的に孤立させるための陰謀を巡らせ、彼のイメージを傷つけるための情報操作も行いました。

      結果として、ルムンバ大統領は1961年に失脚し、1961年から1965年までの間、コンゴは政治的な混乱と内戦に見舞われました。この介入によって、CIAはコンゴの政治情勢に大きな影響を与え、その後の歴史にも重大な影響を及ぼしました。

      CIAの介入は、アメリカの利益や冷戦時代の政治的な考慮に基づいて行われたとされています。しかし、この介入はコンゴ国内の不安定化や人権侵害を助長し、国民に多大な被害をもたらしたと批判されています。

  • 1964年 ブラジル 軍事政権の樹立
    • このクーデターはブラジルの民主的に選出された大統領であるジョアン・グーラルト政権を転覆させ、軍事政権を樹立することを目的としていました。

      背景として、グーラルト政権は左派的な政策を推進し、社会改革や土地改革、石油国有化などの政策を進めました。これに対し、ブラジルの保守派や軍部、ビジネスエリートなどは反発し、政権転覆を図りました。

      CIAは、ブラジルの反政府勢力や軍部と連携し、クーデターを支援しました。彼らは情報収集や訓練、資金援助などを提供し、グーラルト政権を孤立させるための活動を行いました。また、CIAはブラジル国内のメディアや経済界に対しても影響力を行使し、反政府の雰囲気を高めました。

      1964年3月31日、クーデターが発動され、グーラルト政権は打倒されました。その後、ブラジルは軍事政権下での長期間の独裁体制が続きました。このクーデターはCIAによる積極的な介入によって支援されたとされており、ブラジルの政治情勢に大きな影響を与えました。

      CIAの介入は、アメリカの冷戦政策や共産主義への対抗を背景に行われたとされています。しかし、このクーデターはブラジル国内での政治的な抑圧や人権侵害を引き起こし、長期間にわたる暗黒時代をもたらしました。

  • 1961年 キューバ ビックス湾事件
    • ビックス湾事件は、1961年に発生したキューバの反乱軍によるアメリカ合衆国の支援を意図した陸上侵攻作戦であり、CIAはこの事件に関与していました。

      CIAは当時、キューバフィデル・カストロ政権に対して敵対的な立場をとっており、キューバの反カストロ勢力を支援していました。ビックス湾事件では、CIAはキューバ人亡命者や反カストロ勢力を訓練し、彼らをキューバに送り込んでカストロ政権を転覆させる作戦を立案・実行しました。

      1961年4月17日、反カストロ勢力がキューバのビックス湾に上陸しましたが、作戦は失敗し、反乱軍はキューバ政府軍によって鎮圧されました。CIAの支援にもかかわらず、作戦は事前にキューバ政府に露見しており、予想以上に強力な反撃に遭いました。

      この作戦の失敗はCIAにとって大きな挫折となり、キューバアメリカの関係をさらに悪化させました。ビックス湾事件はキューバの歴史における重要な出来事であり、冷戦時代のアメリカのキューバ政策の一環として注目されています。

  • 1965年 インドネシア スカルノ大統領に対する関与
    • CIAは1965年のインドネシアでの政変において、スカルノ大統領に対する関与が指摘されています。この事件はインドネシアの政治的混乱や大量虐殺を引き起こしました。

      背景として、スカルノ大統領は非同盟運動を推進し、インドネシアアメリカや西側諸国から独立した立場に置くことを目指していました。しかし、CIAはスカルノ政権を共産主義との関係を持つ危険な勢力と見なし、彼の政権転覆を試みました。

      CIAはインドネシア反共主義的な軍部や反政府勢力と連携し、スカルノ政権に対するクーデターを支援しました。彼らは情報提供や資金援助、訓練などを行い、反政府勢力を強化しました。また、CIAはスカルノ政権に対して経済制裁プロパガンダ活動を行い、国内の不安定化を図りました。

      1965年9月30日、インドネシア国内で軍部の一派によるクーデター未遂事件が発生し、スカルノ政権は混乱状態に陥りました。この事件をきっかけに、反共主義的な軍部がスカルノ政権を排除し、新たな政権を樹立しました。この政変によって、インドネシアでは大規模な大量虐殺が発生し、数十万人から数百万人に及ぶとされる人々が犠牲になりました。

      CIAの具体的な関与の程度や責任は明確にはされていませんが、CIAがスカルノ政権に対して積極的に介入し、政変を促進したとされる見解が存在します。この事件はインドネシアの歴史において重大な出来事であり、CIAの影響力や冷戦時代のアメリカの外交政策の一環として議論されています。

  • 1973年 チリ ピノチェトクーデター
    • チリのピノチェトクーデターは、1973年にチリの民主的に選出された大統領であるサルバドール・アジェンデ政権を転覆させ、軍事独裁政権を樹立した出来事です。CIAはこのクーデターに関与し、ピノチェト政権の樹立に貢献しました。

      背景として、アジェンデ政権は社会主義的な政策を推進し、チリの国内外の利益構造を再編することを試みました。これにより、アメリカの政府や企業は彼の政権を反共主義的な立場から見なし、反対勢力を支援することを決定しました。

      CIAはアメリカの情報機関として、アジェンデ政権に対する情報収集や反政府勢力への支援を行いました。彼らは資金援助や訓練、情報提供などを通じて反政府勢力を強化し、政権転覆を目指しました。また、CIAは経済制裁プロパガンダ活動を通じて、アジェンデ政権を孤立させる努力も行いました。

      1973年9月11日、ピノチェト将軍率いるチリ軍はクーデターを発動し、アジェンデ政権を打倒しました。ピノチェト政権は以後の17年間にわたって独裁体制を敷き、多数の政治的な弾圧や人権侵害を行いました。

      CIAの関与は当初は秘密裏に行われましたが、後にその関与が明るみに出ました。CIAはピノチェト政権の樹立において重要な役割を果たし、政権の維持や経済的な支援を行いました。

      ピノチェトクーデターとCIAの関係は、チリの歴史において重要な出来事となっており、アメリカの外交政策や冷戦時代の影響力拡大の一環として議論されています。このクーデターによって引き起こされた暴力や人権侵害は、長期にわたってチリ社会に影響を与えました。